忍者ブログ
eightblog

eightblog

ブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

あっついですね!
またパソコンの排熱が煩わしいですこんにちは…!

気持ちはわかるけどいい加減頑張ろうぜ自分!
そんなこんなで目標本日中に終わらせよう、うーん無理っぽい!

絵を描く時間はないので禁断のお蔵入り倉庫から1枚出してきました。
禁断の理由はシャインチュウイという魔法の言葉←
見たい方はどうにかしてみてください←←
因みに大分昔に書いたうえにガサガサ下書きなので頑張る甲斐はきっとないよ!



そんなでとりあえず書きすすめますか!
しっかし資料少ないわー…

1.初めに
 本レポートは、授業で取り扱った人物の中でも新島襄について取り上げる。筆者が新島襄を選んだ理由は、大きな偉業を成し遂げたにもかかわらず、世間にその名があまり知られていないことが不思議で仕方がないからだ。本レポートでまとめていくことで、彼の功績をより深く理解していくことを目的とする。

2.新島襄
 1843年に上野国安土藩士の家に生まれ、七五三太と名付けられる。幼い頃から藩主の命により学問を学び、漢籍や蘭学に触れていた。1860年に幕府の海軍操練所で海外の情報を入手し、その4年後に函館から上海経由でアメリカを目指した。しかし、当時の日本では国外へ渡ることが禁じられており、新島自身もそのことを知りながら計画を進め、1865年にボストンに到着する。また、上海からアメリカへ渡る際に乗り換えたワイルド・ハーバー号にて、船長のテイラーから「ジョー」と名付けられる。これは英字で「Joseph」と書き、旧約聖書で異国に売られ功をなしたヨセフに準えたものだと思われる。
 アメリカに移ってからは、ワイルド・ハーバー号の船主であったハーディー夫妻の世話になり、支援を受けフィリップスアカデミーに入学。1867年に英語科を卒業し、アンドーバー神学校付属教会にて洗礼を受けている。次いで1870年にアマースト大学を卒業し、理学士の称号を得る。1871年に在米外交官の森有礼と面会し国外脱出罪を取り消し、正式な留学生として認められる。翌年に岩倉遣欧使節団と対面し、木戸孝允に目をつけられ通訳・報告役として随行することとなる。
 また、自らが洗礼を受けたアンドーバー神学校に入学し、卒業と同時に宣教師、牧師資格を会得した。そして同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得て日本に帰国。1875年にかねてから親交の深かった高松保実子爵より別邸屋敷の半部を借り受けることにより校舎を確保し、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任。こうして、日本に初めてキリスト教主義の学校を設立した。設立から1年後、プロテスタント派であった熊本バンドと関わりを持ち、禁止下にありながらも生徒等に自身がキリスト教信仰者であることを告白。熊本バンドの選りすぐりの学生たちが同志社に大挙編入したが、このことがきっかけでひと悶着が起きる。
 それは、編入してきた熊本バンドの学生に比べ、同志社の学生のほうが学力が低いということである。そのため確執が起き、1880年、新島が学校運営のための募金運動、またキリスト教伝道のために留守をしている最中に、教師会は学力の違いから分かれていた二つのクラスを合併させることを決定した。これに上級生が反発、学校側の姿勢を問い質し、京都に帰った新島からも説明がなされたが納得せず、ついには授業をボイコット、ストライキに突入してしまう。新島は教師会の席で、校則にしたがって一週間の謹慎処分を下したが、途中で処分を解除し、1880年4月13日の朝礼において「今回の生徒の集団欠席にいたる紛争は、生徒の罪でも幹事の責任でもなく、自らの落ち度である。校長たるの徳の欠けたるためである。されば、彼らの過ちは我が不行き届きと不徳の結果である。されば如何でこれを罰することができよう。されど、同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰し、生徒に代わって学校の規則の重んずべき事を知らしむべき」と語り、壇上に持ってきた杖で、自らの左拳を何度も、杖が折れるほど打ち続けた。有名な自責の杖事件である。
 当時この行為は多くの人が返って秩序を混乱させ、指導上からも愚かな行為だと感心せず、中には怒って席を立つ生徒もいた。しかし愛と赦しを持って自らを犠牲にする行為はキリスト教に信仰の厚い彼の心を裏付けるものであり、その精神は後世にわたって語り継がれていくこととなる。
 周囲からの後押しも受け、専門学校から総合学院への進展を願い、1883年に同志社大学設立運動を開始する。1888年11月には『同志社大学設立ノ旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に掲載された。しかし1889年、募金運動展開中に病に倒れ、翌年1890年に大学の設立を見ることなく神奈川県大磯にて息を引き取った。

3.まとめ
 以上、新島襄の生涯について大まかにであるがまとめてきた。筆者が思うところ、新島の人となり、キリスト教信仰の厚さは自責の杖事件にて大きく感じられる。しかしそれもまた一片でしかなく、本来は誰が思うよりも深い、計り知れないほどの信仰があったのではないだろうか。愛と赦しを持って自身を犠牲にする、それはキリスト教の中でも基礎と言える教えであるが、それを実践できた者が何人いただろうか。新島が行った行為により、何を見出すか各々で考えてみて頂きたい。

おし、1800文字達成!
(推敲は…しない…!)



ちょっと休憩…!
てかもう晩御飯ですか、時間は早いものです…

ご飯食べたら1時間くらいゲームしたいです←
PR
題字の通りです、もう眠くて眠くて仕方ないです。
ライフはとっくに零なのよ…

とりあえず後は課題だけで学校は休みだと1回スイッチ切っちゃいましたからね!
んでそのさいもうバテバテだったから余計に…
まぁ言い訳は良いですか。


そんなで資料に沿っていろいろ一応やっていきますかー!まとめ上げだけ!
ごめん眠いんだ…眠いんだよパトラッコ…



新島襄
・国禁を犯してアメリカに旅立つ→「ジョー」と名付けられる
・ボストンに到着
・夫妻の援助でアカデミーに入学
・翌年洗礼を受ける
・アカデミー卒業後、大学院に入学
・大学院卒業、日本人初の学士に。
・クラーク来日のきっかけを作る
・国禁を犯して渡米したが、時代が変わったことにより留学生として認可。→仲介役としての働き→罪を帳消しに。
・(本人は不本意だったらしいが)日本人通訳者として貴重な人材となる
・日本のお偉いさん方が米のお偉いさん方を土下座して迎える中、新島は1人欧米風に抱き合い握手したと言う逸話がある。

あーっと駄目だ眠い…

・日本に帰る前(大学卒業時)から日本にキリスト教大学院を設立したいとなんかの大会で訴えて寄付を得る約束をしていた。
・同志社英学校…
・じ、じせきのt

orz
お楽しみは明日に延びました…しょぼー…
今日も何とか越せれました、時期的に落ち過ぎてよくない!よくないぞー!!

結局本日はテストがないので親からの休養要請を受ける事にしました。
ただ出席危なかった気がす(ry
まぁ例え落としても別に授業の内容がわからなくて落ちたわけじゃないので、再履修が必要ならまた取ってもしんどいことはないかと。

んで最近日記がすこぶる詰まらんことになってて申し訳ない…;
本当はもっと楽しいこととか沢山あったんですよ!
ただ書く時間と気持ちが…

実は先週サイレントEXに挑戦してきました
もちろんどうしようもなかったのですが!
このこともまたレポート終わったら詳しく書きたいと思いますww



そいではレポート!
これさえ終われば後は楽なレポートなので最後の追い込みですある意味!
登校日自体は明日でおしまいなので気負いするのも今日までです。

んでこの教科テストもやったしレポートこれで2つめなんだよな!
テストがそれなりに出来たので(たぶん)、そんな頑張らなくていいか。


方法
 被験者は、後期高齢者と呼ばれる75歳と成人したばかりの20歳それぞれ10名を対象する。用意する機材はストップウォッチのみとする。手続きは、両者に壁も床も白く塗りつぶされた何もない4畳半の部屋に入ってもらい、時間に関する情報は一切与えないまま被験者は自らの意思で1時間がたったと思う時点で部屋を出る。実験者は、被験者が部屋に入ってから出てくるまでの時間をストップウォッチで計り、計測された時間を記録表に記入していく。
 記録された時間を秒数になおし、そのデータを基に75歳、20歳とそれぞれの平均とSDを算出する。また対応のないt検定にて双方の平均に有意差があるのかを調べ、有意差が認められると年齢によって時間の感覚に差がある可能性を見出すことが出来る。

あっ…これ文字数が半端なく少なくないか…
ゼミ友も700文字くらいしか行かないっていってたけどこれは…
最後にこじつけつけても607文字…

………き、気負いしないって言ったし…い、いいか?


一応バックアップ持って行って学校で考えよう。
友人にも一応聞いてみようか。



んでは今日ももう2時ですよ…
明日早いのでもう寝ます!
明日も2つテストテストですよ~;
あまり口を開きたくないんですが致し方ない。
明日…明日…なくなればいいのに…

あとオト○ンドラマ化はやっぱりなんか違う気がする…!
原作のはちゃめちゃっぷりは実写でやったらいけないよ、あれは2次元でこそ輝くんだと思うよ…!!



目的
 前回のレポートにおいて、年齢別で体感する時間は変わるのかということを少しだけ触れたが、突発的な案であったためあまり大きく触れることが出来なかった。しかし、人間にとって1年とは年齢分の1となるため、年齢を重ねるごとに1年を短く感じると言う話をよく耳にする。実際に年齢によって感じる時間というものに差が出てくるのだろうか。此処では実験法により解明する方法を考察する。

方法
 被験者 無作為に輸出した60歳と10歳の各グループ10人
 


だめだ、重なりすぎて頭が重い…
なかなか働いてくれないので明日の昼の空き時間にします。
最低明後日の5時くらいに出来たらいいのだよ…

・なんとか要因…年齢
・統制なんとか…周囲の環境=同じ大きさの部屋に、同じ時間。
・統計はt検定
つまりは1要因2水準の実験



明日は最もトラウマに触れることになります、もう今日から胃が痛い…
自分に出来る事をする、自分にできる事をする、出来なかったらそれはそれで十分だ。

でもその変わりいいことも設定しときました、ちょっとくらいご褒美あってもいいよね。
またしても学校からです。
今日も親からストップがかかっていたんですが、やっぱりテストだから…

そんで朝から2連でテスト受けてきたんですが、友人からテストがうまくいかなかったと八つ当たりを受けなかなかに胃が痛い…

例)
友「あれ、はちさんなんでこんなとこ居るの?」
8「レポート仕上げ。君は?」
友「は?そんなんうちの勝手やろ(嫌悪感丸出し)」

理不尽…!


そんでいつもイラスト使いまわしじゃなんだろうからってテストの合間に書いていたんですが、なんか学校のスキャナが故障しておりまして。
読み込んでも灰色の画面しか現れないんです。
お前…なんてやつだ…



あい、というわけでレポートです。
あと1時間で何とかしたい今日この頃。

結果
 被験者ごとに各々の代表値として矢羽の角度が15°、60°、それぞれ8回ごとの平均値を算出し、それらを各個人の代表値とする。更にその代表地から平均値とSDを算出した(Table 1)。その結果、錯視量は顕著に現れ、人間の目には少なからずとも実際の図形とは異なる世界を見ていることがわかる。また、平均値は15°の方が大きく、錯視量が矢羽の鋏角によって変化し得る可能性を示した。(Figure 1)しかしその平均の差は有意なものだろうか、対応のあるt検定を行ったところ、有意差が認められた(両側検定:(15)=9.22,p>.05)(Table 2)。それにより、15°と60°の錯視量の間に有意な差があり、鋏角が錯視量に関係することが判明した。

考察
 今回の実験で判明したことをまとめると、一般的法則に準えて我々の眼は確実な情報を得ていないこと、1つの情報を操作しただけで、その結果が大きく変わってしまうことが判明した。では、一般的に起こる錯視は各個人ごとに大きく差が出るものなのだろうか。もし大きな差が見つかれば、人間はそれぞれ個人で全く違う世界を見ていることとなる。それだけでなく、今回の実験の結果から更なる疑問は多く広がっていくこととなる。今後の実験にて、それらの結果を導き出していくことを今後の課題とする。



ほい終了!
もー面倒くさいね!

んでこれにグラフ貼って印刷して終了じゃ!


カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[03/16 しほ]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
はちはし 八雲
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
Powerd by NINJAブログ / Designed by SUSH
Copyright © eightblog All Rights Reserved.
忍者ブログ [PR]