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あっついですね!
またパソコンの排熱が煩わしいですこんにちは…!
気持ちはわかるけどいい加減頑張ろうぜ自分!
そんなこんなで目標本日中に終わらせよう、うーん無理っぽい!
絵を描く時間はないので禁断のお蔵入り倉庫から1枚出してきました。
禁断の理由はシャインチュウイという魔法の言葉←
見たい方はどうにかしてみてください←←
因みに大分昔に書いたうえにガサガサ下書きなので頑張る甲斐はきっとないよ!
そんなでとりあえず書きすすめますか!
しっかし資料少ないわー…
1.初めに
本レポートは、授業で取り扱った人物の中でも新島襄について取り上げる。筆者が新島襄を選んだ理由は、大きな偉業を成し遂げたにもかかわらず、世間にその名があまり知られていないことが不思議で仕方がないからだ。本レポートでまとめていくことで、彼の功績をより深く理解していくことを目的とする。
2.新島襄
1843年に上野国安土藩士の家に生まれ、七五三太と名付けられる。幼い頃から藩主の命により学問を学び、漢籍や蘭学に触れていた。1860年に幕府の海軍操練所で海外の情報を入手し、その4年後に函館から上海経由でアメリカを目指した。しかし、当時の日本では国外へ渡ることが禁じられており、新島自身もそのことを知りながら計画を進め、1865年にボストンに到着する。また、上海からアメリカへ渡る際に乗り換えたワイルド・ハーバー号にて、船長のテイラーから「ジョー」と名付けられる。これは英字で「Joseph」と書き、旧約聖書で異国に売られ功をなしたヨセフに準えたものだと思われる。
アメリカに移ってからは、ワイルド・ハーバー号の船主であったハーディー夫妻の世話になり、支援を受けフィリップスアカデミーに入学。1867年に英語科を卒業し、アンドーバー神学校付属教会にて洗礼を受けている。次いで1870年にアマースト大学を卒業し、理学士の称号を得る。1871年に在米外交官の森有礼と面会し国外脱出罪を取り消し、正式な留学生として認められる。翌年に岩倉遣欧使節団と対面し、木戸孝允に目をつけられ通訳・報告役として随行することとなる。
また、自らが洗礼を受けたアンドーバー神学校に入学し、卒業と同時に宣教師、牧師資格を会得した。そして同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得て日本に帰国。1875年にかねてから親交の深かった高松保実子爵より別邸屋敷の半部を借り受けることにより校舎を確保し、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任。こうして、日本に初めてキリスト教主義の学校を設立した。設立から1年後、プロテスタント派であった熊本バンドと関わりを持ち、禁止下にありながらも生徒等に自身がキリスト教信仰者であることを告白。熊本バンドの選りすぐりの学生たちが同志社に大挙編入したが、このことがきっかけでひと悶着が起きる。
それは、編入してきた熊本バンドの学生に比べ、同志社の学生のほうが学力が低いということである。そのため確執が起き、1880年、新島が学校運営のための募金運動、またキリスト教伝道のために留守をしている最中に、教師会は学力の違いから分かれていた二つのクラスを合併させることを決定した。これに上級生が反発、学校側の姿勢を問い質し、京都に帰った新島からも説明がなされたが納得せず、ついには授業をボイコット、ストライキに突入してしまう。新島は教師会の席で、校則にしたがって一週間の謹慎処分を下したが、途中で処分を解除し、1880年4月13日の朝礼において「今回の生徒の集団欠席にいたる紛争は、生徒の罪でも幹事の責任でもなく、自らの落ち度である。校長たるの徳の欠けたるためである。されば、彼らの過ちは我が不行き届きと不徳の結果である。されば如何でこれを罰することができよう。されど、同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰し、生徒に代わって学校の規則の重んずべき事を知らしむべき」と語り、壇上に持ってきた杖で、自らの左拳を何度も、杖が折れるほど打ち続けた。有名な自責の杖事件である。
当時この行為は多くの人が返って秩序を混乱させ、指導上からも愚かな行為だと感心せず、中には怒って席を立つ生徒もいた。しかし愛と赦しを持って自らを犠牲にする行為はキリスト教に信仰の厚い彼の心を裏付けるものであり、その精神は後世にわたって語り継がれていくこととなる。
周囲からの後押しも受け、専門学校から総合学院への進展を願い、1883年に同志社大学設立運動を開始する。1888年11月には『同志社大学設立ノ旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に掲載された。しかし1889年、募金運動展開中に病に倒れ、翌年1890年に大学の設立を見ることなく神奈川県大磯にて息を引き取った。
3.まとめ
以上、新島襄の生涯について大まかにであるがまとめてきた。筆者が思うところ、新島の人となり、キリスト教信仰の厚さは自責の杖事件にて大きく感じられる。しかしそれもまた一片でしかなく、本来は誰が思うよりも深い、計り知れないほどの信仰があったのではないだろうか。愛と赦しを持って自身を犠牲にする、それはキリスト教の中でも基礎と言える教えであるが、それを実践できた者が何人いただろうか。新島が行った行為により、何を見出すか各々で考えてみて頂きたい。
おし、1800文字達成!
(推敲は…しない…!)
ちょっと休憩…!
てかもう晩御飯ですか、時間は早いものです…
ご飯食べたら1時間くらいゲームしたいです←
またパソコンの排熱が煩わしいですこんにちは…!
気持ちはわかるけどいい加減頑張ろうぜ自分!
そんなこんなで目標本日中に終わらせよう、うーん無理っぽい!
絵を描く時間はないので禁断のお蔵入り倉庫から1枚出してきました。
禁断の理由はシャインチュウイという魔法の言葉←
見たい方はどうにかしてみてください←←
因みに大分昔に書いたうえにガサガサ下書きなので頑張る甲斐はきっとないよ!
そんなでとりあえず書きすすめますか!
しっかし資料少ないわー…
1.初めに
本レポートは、授業で取り扱った人物の中でも新島襄について取り上げる。筆者が新島襄を選んだ理由は、大きな偉業を成し遂げたにもかかわらず、世間にその名があまり知られていないことが不思議で仕方がないからだ。本レポートでまとめていくことで、彼の功績をより深く理解していくことを目的とする。
2.新島襄
1843年に上野国安土藩士の家に生まれ、七五三太と名付けられる。幼い頃から藩主の命により学問を学び、漢籍や蘭学に触れていた。1860年に幕府の海軍操練所で海外の情報を入手し、その4年後に函館から上海経由でアメリカを目指した。しかし、当時の日本では国外へ渡ることが禁じられており、新島自身もそのことを知りながら計画を進め、1865年にボストンに到着する。また、上海からアメリカへ渡る際に乗り換えたワイルド・ハーバー号にて、船長のテイラーから「ジョー」と名付けられる。これは英字で「Joseph」と書き、旧約聖書で異国に売られ功をなしたヨセフに準えたものだと思われる。
アメリカに移ってからは、ワイルド・ハーバー号の船主であったハーディー夫妻の世話になり、支援を受けフィリップスアカデミーに入学。1867年に英語科を卒業し、アンドーバー神学校付属教会にて洗礼を受けている。次いで1870年にアマースト大学を卒業し、理学士の称号を得る。1871年に在米外交官の森有礼と面会し国外脱出罪を取り消し、正式な留学生として認められる。翌年に岩倉遣欧使節団と対面し、木戸孝允に目をつけられ通訳・報告役として随行することとなる。
また、自らが洗礼を受けたアンドーバー神学校に入学し、卒業と同時に宣教師、牧師資格を会得した。そして同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得て日本に帰国。1875年にかねてから親交の深かった高松保実子爵より別邸屋敷の半部を借り受けることにより校舎を確保し、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任。こうして、日本に初めてキリスト教主義の学校を設立した。設立から1年後、プロテスタント派であった熊本バンドと関わりを持ち、禁止下にありながらも生徒等に自身がキリスト教信仰者であることを告白。熊本バンドの選りすぐりの学生たちが同志社に大挙編入したが、このことがきっかけでひと悶着が起きる。
それは、編入してきた熊本バンドの学生に比べ、同志社の学生のほうが学力が低いということである。そのため確執が起き、1880年、新島が学校運営のための募金運動、またキリスト教伝道のために留守をしている最中に、教師会は学力の違いから分かれていた二つのクラスを合併させることを決定した。これに上級生が反発、学校側の姿勢を問い質し、京都に帰った新島からも説明がなされたが納得せず、ついには授業をボイコット、ストライキに突入してしまう。新島は教師会の席で、校則にしたがって一週間の謹慎処分を下したが、途中で処分を解除し、1880年4月13日の朝礼において「今回の生徒の集団欠席にいたる紛争は、生徒の罪でも幹事の責任でもなく、自らの落ち度である。校長たるの徳の欠けたるためである。されば、彼らの過ちは我が不行き届きと不徳の結果である。されば如何でこれを罰することができよう。されど、同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰し、生徒に代わって学校の規則の重んずべき事を知らしむべき」と語り、壇上に持ってきた杖で、自らの左拳を何度も、杖が折れるほど打ち続けた。有名な自責の杖事件である。
当時この行為は多くの人が返って秩序を混乱させ、指導上からも愚かな行為だと感心せず、中には怒って席を立つ生徒もいた。しかし愛と赦しを持って自らを犠牲にする行為はキリスト教に信仰の厚い彼の心を裏付けるものであり、その精神は後世にわたって語り継がれていくこととなる。
周囲からの後押しも受け、専門学校から総合学院への進展を願い、1883年に同志社大学設立運動を開始する。1888年11月には『同志社大学設立ノ旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に掲載された。しかし1889年、募金運動展開中に病に倒れ、翌年1890年に大学の設立を見ることなく神奈川県大磯にて息を引き取った。
3.まとめ
以上、新島襄の生涯について大まかにであるがまとめてきた。筆者が思うところ、新島の人となり、キリスト教信仰の厚さは自責の杖事件にて大きく感じられる。しかしそれもまた一片でしかなく、本来は誰が思うよりも深い、計り知れないほどの信仰があったのではないだろうか。愛と赦しを持って自身を犠牲にする、それはキリスト教の中でも基礎と言える教えであるが、それを実践できた者が何人いただろうか。新島が行った行為により、何を見出すか各々で考えてみて頂きたい。
おし、1800文字達成!
(推敲は…しない…!)
ちょっと休憩…!
てかもう晩御飯ですか、時間は早いものです…
ご飯食べたら1時間くらいゲームしたいです←
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